2009年 05月 01日
多田銀銅山跡 |
兵庫県猪名川町に銀山や銅山があったということをご存知ですか。
奈良の大仏の鋳像もこの地の銅が使われたといわれる程、古い歴史のある銅山跡。銀山地区を中心に10数kmの広範囲に、江戸時代(現在の周辺7市町)には2000前後もの坑道「間歩(まぶ)」が存在しました。豊臣時代は「瓢箪間歩」・「台所間歩」を中心に栄え、徳川時代も「大口間歩」の発見と共に直轄領となり、代官所も設置されていました。この多田銅で採掘されるものは品質がよく細工に適していたので、抜荷をされないように厳重な注意が払われていました。昭和48年には休山となりましたが、今では整備された「青木間歩」の坑道に入り、往時を偲ぶことできます。江戸中期の科学者・平賀源内も長崎留学の帰路に立ち寄った伝承もあり、歴史のロマンが漂います。
・悠久の館
ここにはいくつかの間歩(まぶ)という坑道の入り口があります。
・青木間歩
薬用植物として利用されるアオキが繁茂していたことからこの名が付いたとの説がある。鉱床の発見は明らかでないが、手掘りのみによる旧抗と日本鉱業(昭和29年から48年まで多田銀銅山で採掘)により機械を使用した新坑がある。ここの新坑は中を見ることが出来る。中は非常に涼しくて気持ちがよかったですよ。見学可能時間は9:00~17:00(12月29日から1月3日は見学不可)
・台所間歩
この間歩はその運上銀で大阪城の台所入用費をまかなったところから名付けられた。銀山からの採掘銀銅により、大阪城の経費の大部分を維持されていたと推測され、重要な財源であった。中には入れない。
・瓢箪間歩
足利時代から採掘されていたが、豊臣秀吉の時代(1560~1590年)に永禄から天正にかけて全盛を極めた時、原丹波、原淡路父子に秀吉から馬印の千成瓢箪を与えられ、これを坑口に立てたところから名付けられた。この坑道内に秀吉は馬に乗って入ったと伝えられている。ここも中には入れない。
間歩ではないが水抜き通風跡というのがある。
・銀山代官所の門
所在地 〒666-0256
猪名川町銀山
問合せ先
電話 猪名川町農林商工課
(072)766-0001(代)
FAX (072)766-3732
定休日等 無し(自由散策)
駐車場 有り(公衆便所隣接地の空地)
交通(車) 県道12号線(川西篠山線)川西方面、銀山口交差点を右折し約4分
料金 見学自由
奈良の大仏の鋳像もこの地の銅が使われたといわれる程、古い歴史のある銅山跡。銀山地区を中心に10数kmの広範囲に、江戸時代(現在の周辺7市町)には2000前後もの坑道「間歩(まぶ)」が存在しました。豊臣時代は「瓢箪間歩」・「台所間歩」を中心に栄え、徳川時代も「大口間歩」の発見と共に直轄領となり、代官所も設置されていました。この多田銅で採掘されるものは品質がよく細工に適していたので、抜荷をされないように厳重な注意が払われていました。昭和48年には休山となりましたが、今では整備された「青木間歩」の坑道に入り、往時を偲ぶことできます。江戸中期の科学者・平賀源内も長崎留学の帰路に立ち寄った伝承もあり、歴史のロマンが漂います。
・悠久の館
ここにはいくつかの間歩(まぶ)という坑道の入り口があります。
・青木間歩
薬用植物として利用されるアオキが繁茂していたことからこの名が付いたとの説がある。鉱床の発見は明らかでないが、手掘りのみによる旧抗と日本鉱業(昭和29年から48年まで多田銀銅山で採掘)により機械を使用した新坑がある。ここの新坑は中を見ることが出来る。中は非常に涼しくて気持ちがよかったですよ。見学可能時間は9:00~17:00(12月29日から1月3日は見学不可)
・台所間歩
この間歩はその運上銀で大阪城の台所入用費をまかなったところから名付けられた。銀山からの採掘銀銅により、大阪城の経費の大部分を維持されていたと推測され、重要な財源であった。中には入れない。
・瓢箪間歩
足利時代から採掘されていたが、豊臣秀吉の時代(1560~1590年)に永禄から天正にかけて全盛を極めた時、原丹波、原淡路父子に秀吉から馬印の千成瓢箪を与えられ、これを坑口に立てたところから名付けられた。この坑道内に秀吉は馬に乗って入ったと伝えられている。ここも中には入れない。
間歩ではないが水抜き通風跡というのがある。
・銀山代官所の門
所在地 〒666-0256
猪名川町銀山
問合せ先
電話 猪名川町農林商工課
(072)766-0001(代)
FAX (072)766-3732
定休日等 無し(自由散策)
駐車場 有り(公衆便所隣接地の空地)
交通(車) 県道12号線(川西篠山線)川西方面、銀山口交差点を右折し約4分
料金 見学自由
by ka_zu_bon
| 2009-05-01 15:05
| 歴史
|
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